長与町・時津町の街並み紹介
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みなさんこんにちは。当社のホームページへようこそ!
さて、みなさん、長与町・時津町について、少しだけ紹介させていただきます。
長与町の人口は42,617人(平成27年10月31日現在)、時津町の人口は30,555人(平成26年9月30日現在)、合計すると約73,000人!
まず長与町ですが、長崎バイパスを降りて、しばらくすると、住宅地が目に入ります。三方を山に囲まれた盆地や丘陵地となっていて、中心部は宅地だけでなく、アパート、マンションも見られ、人口が増え続けている町であることが伺えます。
一方、時津町は、町の中心部を長崎市と繋がる国道206号が走り、その周辺に店や宅地が広がっています。この道は佐世保と繋がる主要道路であるためか交通量も多く、その周辺には郊外型の大型店舗も数多く点在しています。また、北部は2町とも大村湾に面していますが、湾内に半島があり、町境は半島を尾根に沿って分かれ、それぞれ入り江が存在しています。
大村湾沿いの道路を諫早市の方向に向かうと、山側は段状となっていて、みかん畑が中腹まで広がっています。道路は諫早市に近づくにつれ、次第に狭くなり、山の傾斜も厳しくなっています。
そして、さらに進むと大村湾の向かい側に長崎空港や街並みが見え、大変味わいのある風景となっています。どちらの町もみかんをはじめとする柑橘類の生産が盛んで、多くの特産品も販売されています。ぜひ、みなさん買いにきてください!
【長与町・時津町の関係】
長与町・時津町は、平成になって合併話(旧琴海町を含め3町)も出たようですが、合併協議会を解散し、現在に至っています。
それでも2町は、昔から大変関係が深く、その一つとして、それぞれの町のホームページを見ると、お互いの町のホームページにリンクできるようになっています。このようなケースは、他の自治体ではあまり見られないように思います。そして、長与町役場と時津町役場の距離は約3.4kmと、大変近い距離に位置しています。
【町名の由来について】
次に、「長与」、「時津」という地名の由来についてです。
「長与」由来は、いろいろ説があるようです。町勢要覧によれば、古代時代、神功皇后がこの地に着いて寒くて寝られなかったため、「ああ長夜だなあ」ともらし、「夜」が「与」に変わったという説、この地は深い入り江になっていたことから「長江」と呼ばれていましたが、それが「長与」になったという説等があるそうです。
「時津」という地名について、これも起源ははっきりしないようです。しかし、時津町にある民族資料館によると、大昔から日本では、縁起のよいものとして「時つ」という言葉があり、万葉集のなかにも「時つ風吹くべくなりぬ」とあるそうで、縁起のよい「時つ」の「つ」と港を意味する津が入れ替わって「時津」になったと伝えられているとのことです。なお、昔から「トギツ」と言われていたそうです。いずれも古代時代から受け継がれている地名であり、あらためてその重みを感じます。
【町の見どころ】
さて、中尾城公園のことについて。長与町役場から1kmもない南東の方向に小高い丘陵があり、その頂上に中尾城跡地があります。この城は、天文年間(1532~55年)に築かれたそうです。詳しいことは長与町さんのHPに記載しているので、閲覧いただければと思いますが、頂上は大変見晴しがよく、中世によく見られる山城であったようです。
近くには展望台があり、さらに遠方が見えるので、みなさん晴れた日に行かれてみてはどうでしょうか。
なお、文化ホールの駐車場側から山道を登ると、途中、森林となりますが、マムシ注意の看板があるので、ヘビにはご注意を!
時津の歴史を知るには、この「時津町民族資料館」に行くのが最もよいでしょう。
とぎつカナリーホールのなかに資料館はあります。館自体はそう大きくないですが、古代から近代までの歴史的な展示品が並んでいて、シアター等もあります。昔の甲冑や農機具、また、江戸時代の茶屋も再現され、特に歴史の好きな方には興味深く見学できると思います。
私が来館したときは、明治から昭和にかけて、町並みや人々の暮らしを写した古い写真の展示イベントも開催され、大変興味深く見学させていただきました。
資料館は無料なので、ぜひお寄りください。ただし、館内の写真撮影は禁止なのでご注意を!
以上、簡単ながら長与町と時津町の話をさせていただきました。意見のある方は、HPの左側にあります「お問い合わせ(目安箱)」欄にて問い合わせていただければうれしい限りです
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